2011年8月18日木曜日

正力亨と息子

正力亨と息子



正力亨の父親である正力松太郎は、
「大正力」とも呼ばれ、
「テレビの父」、「原発の父」とも呼ばれました。

正力松太郎さんには、血のつながる2人の息子がいます。

本妻の息子さんである長男の正力亨さん、
妾の息子さんである異母兄弟で次男の正力武さんの2人です。


正力松太郎さんは、ワンマン的な面を持っていました。

そのため、正力松太郎さんは、
朝日新聞・毎日新聞に劣っていた読売新聞を、
ヤクザによる押し売り的な新規の拡張販売を行い、
発行部数を伸ばしたとも言われています。

また、正力松太郎さんは、
「正力コーナー」や「お召し列車」と呼ばれる、
正力松太郎を持ち上げる報道を、
読売新聞の紙面や日本テレビの放送で行いました。

正力松太郎さんは、政治家とのつながりも深く、
昭和31年には原子力委員会の初代委員長に就任し、
同年、科学技術庁の初代長官になっています。

そして、原子力発電所の建設に
大きく関係していました。

昭和44年10月9日に、読売新聞の社主でもあった
正力松太郎さんは、
84歳で亡くなります。

正力松太郎さんは、晩年、2人の息子である、
正力亨さんと、正力武さんを、要職に位置づけていました。

息子である長男の正力亨さんは、日本テレビの副社長。

息子である次男の正力武さんは、日本テレビの取締役。

また、娘の婿である小林与三次さんは、読売新聞の副社長。


正力松太郎さんの死後は、
それぞれ降格されました。

息子である長男の正力亨さんは、日本テレビの平取締役。

息子である次男の正力武さんは、日本テレビの非常勤取締役。

一方、娘の婿である小林与三次さんは、日本テレビの社長。

なお、読売新聞の社長には、務台光雄が就任しました。


これらの人事は、正力松太郎さんの死後、
7ヶ月半の間に行われました。

その後、正力亨さんは、読売新聞社の社主となります。

また、正力亨さんは、日本テレビにいた正力武さんを追放し、
正力武さんは、自分の人生を呪うように酒を浴びるほど飲み続け、
51歳で亡くなりました。

「大正力」と呼ばれた正力松太郎さんと比べると、
息子の正力亨さんは、正力松太郎さんが行っていたことを、
そのまま行っていただけ、という印象をもたれやすく、
「小正力」と揶揄されることもありました。

また、渡辺恒雄に実権を握られていた、
というイメージも強く、
「お飾り」と思われている面もありました。